政治は、難しい。しかし、いい政治、いい国の基準はおそらく、いたってシンプルなのではないだろうか。そう思うきっかけとなった一冊がある。『恋と国会』(著・西 炯子/小学館)だ。
元地下アイドル、国会へ参上
帯に「前代未聞の国会ラブコメ!?」と書かれていることからも、国会を舞台にドタバタ恋愛劇が描かれるのだろうと思われた『恋と国会』。
しかし、その期待は裏切られたと言ってもいい。意識しなければ知りもしなかった、国会の日常や政治の裏側、国が抱える問題が丁寧な解説とともに描かれていたからだ。
主人公の山田一斗は、もともと「涙目マリオネット」という地下アイドルグループに所属していた。国会議員を志したのは、同じグループの最年少メンバーかりんの自死がきっかけだ。
一斗が唯一「自分よりかわいい」と認め、事務所からもプッシュされていたかりんは、いわば「アイドルの金の卵」。にもかかわらず、みんなで売れることを願ってやまない、やさしい女の子だった。そんな彼女が突然、ライブを休んだのだ。心配した一斗は彼女を必死で探し続け、ようやく見つけた先で、「日本、クソ」という遺書を残し自ら命を絶ったかりんの姿を目にする。
かりんを追い詰めたのは、日本に一万人以上いると推測されている無戸籍児問題。生みの母親が元夫のDVから逃れていた彼女は、出生届が出されないまま大きくなっていた。
しかも生みの親とは死別。兄弟とともに向かった養親のもとでは、バイト代やわずかなライブ代をせびられていたという。そんな日々から兄弟とともに逃げたはいいものの、無戸籍を理由に安定した仕事には就けず、生きるために体を売って生活せざるを得なかったのだ。
実は一斗も、実の親がいない。しかし、いろんな人の元で大きくなってきたという自負があった。一方で、親がおらずひとりぼっちで選ぶ若者がいる。国会へと一斗を突き動かしたのは、こんな現状をなんとかして、誰もが「まあまあ」だと思える日本をつくりたいという意志だった。
「日本まあまあじゃん」って国にできないかなって思ったの
(『恋と国会』1巻第九話より引用 ©西炯子/小学館)
彼女が発した「まあまあ」な日本をつくりたいという、一見ライトに見える言葉。しかしこの言葉は、政治参加の軸として非常に的を得ていると思う。
誰もが満足する、完璧な法案や制度があるに越したことはないが、現実問題難しいだろう。ただ日本国憲法25条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定められている。少なくとも「無戸籍」を理由に生きにくさを覚える、かりんのような人がいてはならないということではないだろうか。
一斗が言う「まあまあ」は、誰もが「生きるのがつらい」という想いを持たずに済む国をつくりたいという、どこまでも現実的な意志であり、政治参加の軸になりえると思うのだ。
うなずきと拍手が止まらない、一斗の言動
「日本をまあまあな国にしたい」と、地下アイドルから国会議員へとシフトチェンジした一斗。とはいえ彼女は、議員一年生だ。右も左も分からない国会という場所では、自分が取る行動にも慎重になりそうなものである。
しかし一斗は、そうではなかった。彼女は総理大臣にふさわしいと思う人に投票する「首班指名」で、なんと自分に票を入れたのだ。
過労死した人のことを厄介者扱いする人、偉い人にはゴマをすり新人には暴言を吐く人、国民の声を騒音扱いする人……。こんな冷たい考えを持つ国会議員の中に、国のリーダーとしてふさわしいと思える人がいないと思った彼女は、自分に票を入れ総理になると宣言する。
首班指名は、政権与党の党首が選ばれることが当たり前。その党に所属する議員であれば、党首に投票するのが当然だろう。秩序を乱すこの発言は、除名対象の問題となる。しかし彼女は「器の小さい政権与党だと評価されては困る」というとりあえずの理由で、除名を免れた。
彼女は他にも、政治家から見ると「トンデモ」なことをやらかしていく。とある大物議員の政治資金パーティーでは、「頭がいい政治家がこんなにも揃っているのに、なぜ国は変わらないのか」と、ど正論をかました。内閣総理大臣所信表明でも、総理が官僚のつくった原稿を読み飛ばしてしまい話がつながっていないことを、大声で指摘したのだ。
このように彼女には、国会、政治家の「当たり前」が通用しない。その姿はまるで、本当はすべての政治家にそうであってほしいと願う「国民の代弁者」だ。
特に「さしかえ」のストーリーで見られる彼女の言動は、政治参加に消極的な筆者ですらも感じている、政治や政治家に対する違和感、不信感の具現化といっても過言ではない。
さしかえとは、各委員会で採決を取る際に全委員の半数以上がその場にいなければならない「定足数」を割ることのないよう、代理の人間を立てる政権与党内の暗黙ルール。代理人を立てる理由は、委員会を掛け持ちしていたり、その日に別の予定が入ってしまったりしてその委員会に所属する委員が欠席するからだ。定足数を割らないことが目的である以上、代理人は話の内容を理解する必要はない。採決の起立だけをして議場を去っていくことも珍しくないという。
一斗は、「国会は国の大事なこと話し合う場ではないか」「少数派の意見も聞くべきではないか」と、とりあえず多数決をとるためだけの暗黙ルールが理解できない。しかし、同じく一年生議員で彼女のお世話係のようなポジションを押し付けられてしまった世襲議員の海藤福太郎に、「国会は与党が出した法案を通していくところ」「これが民主主義だ」と淡々と述べられ、先輩議員からのさしかえ依頼にしぶしぶ対応していく。
現実の国会でも、民主主義を揺るがしかねないなんだか不穏な法改正が与党の「数」という正義でまかり通ってしまっている。ただ数の正義は、国会だけではなく国民の日常でも当たり前に存在する。少数派はどこか、「おかしいと声をあげること自体がズレているのではないか」と自分に非があるように捉えてしまうことすらある気がしている。
一斗は、さしかえをはじめとする国会にはびこる政治家たちの慣習に「納得いかない」と声を出す。身の回りにはびこる「おかしな当たり前」を、「ここではこうだから」とすんなり受け入れない。その姿からは、おかしいと思ったことを口にする勇気や、自分に非を感じる必要はないというメッセージが伝わってくるのだ。
政治に疑問を持つきっかけに「まあまあ」を
SNSの発展で、気軽に自分の想いを表に出せるようになった昨今。しかしそれが政治の分野となると、ハードルが一気にあがる。筆者も政治に関することは、意図的につぶやかないようにしていた。政治知識のない人間に、発言する権利はないと思っていたからだ。
ただこの「権利はない」という理由は単なる言い訳だったと、「日本まあまあじゃん、と思えるかどうか」という一斗の政治参加の軸が教えてくれた。
私たちは政治について、もっと気軽に考えていいのだ。私たちの生きる日本が「まあまあ」であり続けるために。
コメント